跨線橋が渡れなくなっていました
場所は、国道463号線の新浦和橋の脇にある、歩行者しか通れない跨線橋(だから歩道橋)が塗装のためなのか、補修もやるのかわかりませんが、通行止めです。
線路の東側(東通り、ファミマがある浦和区本太3丁目)と、西側(旧中山道=浦和岩槻線、とても印象の悪いローソンがある浦和区常盤2丁目)を結ぶ跨線橋です。東側は三角稲荷の脇に降ります。
工事を始めたのは2月末ころではないかと思いますが、令和6年9月30日(2024年 あと半年)までの予定のようです。
自転車は担がないと通れませんから、車両通行止めってのは意味がなさそうですけど、歩道橋だっただけに歩行者が遠回りするのはちょっと気になる人がいるかもしれませんね。
新浦和橋の歩道橋を使えばいいのでしょうけれど、新浦和橋の南側はゆるやかな坂ですが双方がかなり離れたところになるため、三角稲荷に出現したレイドをやるとなると跨線橋上になってしまうのかな。ファミマに現れたら常盤側の人は少しつらい(笑)
新浦和橋北側の通路は三角稲荷の脇に階段がある点はいいのですが、常盤側はやはり遠いのと、歩道橋までの15mくらいは道路に歩道がなく、ここを裏道として使う人がそこそこいるために危険もあります。
この橋、推測ですが、1968年前後に作られたものではないかと。
この部はの東北本線が複線で走り、踏切もあったらしく、1968年に京浜東北線の線路が大宮まで伸び(それまでは赤羽から東北本線の線路を共用していたらしいです)、同時に貨物線(今の湘南新宿ラインが走る線路)も合わせて、3複線が完成したと読んだことがあります。1970年代の前半にはあったはずなので、50年以上経過していると考えられます。
階段部分、別の日に撮った写真がありました。このあたりに踏切があったという証言はあります。でも、この階段が踏切に繋がっていたのかは不明わかりません。3複線化した頃の単なる保線用の設備かもしれません。
踏切があったと言っている人もは昭和ヒトケタの生まれで、この踏切を渡り当時は女子校だった浦和市立高校(浦和市立女子高等学校?)に歩いて通っていた、当時はこのあたり雑木林しかなかった、ここから市立までまっすぐ歩けたとか言っていたので、いやはや今からでは想像も付きませんね。